一般的に教える指導者とは、指導熱心で、細かく練習メニューを与え、指示やアドバイスをたくさんくれて、心の拠り所としても大きな存在になる人ではないか。
一方、教えない指導者は自分が定義するに、放任主義(自由気ままにやらせて、干渉しない主義)の人だと考える。
どちらがよい指導者かと聞かれると、前者のような気がするだろう。自身の高校時代の指導者はというと、間違いなく後者だった。
練習メニューは出てるようで、出ていなくて、その日の体調や調子で内容を変えてもあれこれ言われることはなかった。大会前の調整は、入学した時から、自由にやれと言われただけで、指示は一切出さなかった。
高3のインターハイ前の1ヵ月間は、全部、自分で考えてやっていいと言われて、全部自分で考えて練習をさせてもらった。その時は、もう自身で考えてやる習慣が身についていたので、そういわれた時、やったーと思った。
当時、周囲の学校の先生からは全く生徒を見ていないとか言う声を、ちらほら聞いたが自身としては何の不自由さも感じなかった。むしろ、こんなにいい指導者はいないと思っていた。なぜかというと、なにも言わなかったが、顧問の先生には間違いなく陸上競技への熱意が感じられたからだ。練習場所も確保してくれたし、道具もたくさん揃えてくれた。だから何の不満もなかった。わけではないが、よかったと思っている。
結果、何がよかったか、それは自身で考えてやる力が身についたことと、自分を救うことができるのは、ほかの誰でもなく、自分自身だけだという考えというか、覚悟を身につけることができたことだ。
先ず、最初の自身で考えでやる力とは、調べる力や試行錯誤する力だ。当時は、練習メニューやハードリングの技術向上、トレーニングの方法をインターネットや本、先輩や友達などを使って徹底的に調べた。そして、それをグラウンドで試した。また、ビデオも撮って何度も見て、研究した。ものすごく、面倒見のいい指導者がいて、いつもアドバイスをくれたらきっと、これほど自身で考えてやらなかったと思う。
次に挙げたことは、頼らない姿勢だ。やれ、指導者がとか、環境がとか言いたくなる。けれども、自身の人生を切り開くのは、自分だけだと思えれば、ふーん、それがどうしたと思えるし、周囲に期待しない、頼らない姿勢ができる。そうすれば、どこでも、強くなれる。つまり無頼って感じだ。何が言いたいかというと、指導者や環境の質にあまり文句を言わなくなることだ。また、単独になっても、一人でもやっていこうとする生き方ではないか。
所謂、教える指導者と教えない指導者はどちらがよいかという問題は、一概に言えないし、永遠の問題だと思う。後者の指導者は数としては少ないし、そのよさを実感できる人も多くはないだろう。なぜなら、教えてくれる人の方が、いい人に感じるからだ。
自身はどう考えるか、前に友人に、結局、自分が受けた指導を生徒にもするようになるよと言われた。なるほど、その通りだなと思った。おれがいいと思ったことは、確かに、次の世代の人にも教えるなと思う。だから、自身は、後者指導者がよい指導者だとおもう。
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